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面接解体新書第3弾|ガクチカ・自己PR

盛らずに強く見せる——加工の本体は「結果の定義」と「ボトルネックの因数分解」の2つしかない

盛らずに書くと、どうしても弱く見える。

かといって、嘘は書きたくない。「すごいことをやった」ように見せる自信もない。盛るか、弱いまま出すか。 その二択で止まっている人は多い。

この記事の結論は、三つ目の選択肢があるということである。盛らずに強く見せる加工は、2つしかない。 どちらも事実を足さない。


「盛る」という選択肢は、そもそも割に合わない

ガクチカを書いていると、必ず一度は誘惑が来る。数字を少し大きくする。やっていない施策を足す。他人がやったことを自分がやったことにする。「みんなやっている」という囁きも聞こえてくる。

倫理の話をする前に、戦術として割に合わないことを先に確認しておきたい。

面接官が持っている判断材料は2つしかない。①ESと、②面接中に受験者が発した言葉である。この2つ以外に、面接官への入力は存在しない。だから理屈のうえでは、嘘は見抜かれないように思える。裏取りをされる可能性は低い。

しかし、面接には深掘りがある。深掘りとは、一つの記述を起点に、その周辺の事実へ順番に降りていく作業である。「なぜそうしたのか」「他の選択肢は考えなかったのか」「そのとき他のメンバーはどう反応したか」——質問は記述の外側へ、外側へと広がっていく。

このとき、事実に基づく記述は無限に深掘りに耐える。なぜなら、事実の背後には常にさらなる事実があるからだ。 実際に起きた出来事は、記憶を掘れば必ず何かが出てくる。一方、捏造された記述の背後には何もない。二層か三層降りたところで、必ず「そこは……特に何も」という空白に突き当たる。この空白は、面接官から見ると異様に目立つ。それまで具体的だった話が、ある一点から急に抽象的になるからである。

さらに悪いことに、深掘りの終着点は「私が経験を通じてそう感じた/そう解釈した」という地点にある。他人の解釈は論理的に否定できないので、ここに着地すればそれ以上は掘られない。ところが経験していないことについては、この着地ができない。 感じてもいないことを「感じた」と言うことになり、そこがまた次の質問を呼ぶ。

つまり嘘は、勝率を上げるどころか、面接の最も重要な局面で自分の武器を一つ失う行為である。だから盛らない。倫理以前に、それが合理的だからである。

では、盛らずに何をするのか。加工の本体は2つしかない。結果の定義と、ボトルネックの因数分解による特定である。 以下、この2つを順に説明したうえで、最後に「加工と捏造の境界線がどこにあるか」を明示する。

加工1: 結果の定義

なぜ最初に結果なのか

前提として、地味なエピソードにはあらかじめ定義された結果が存在しない。「全国大会に出場した」なら、何が達成されたかは説明不要である。しかし「サークルの運営をしていた」「アルバイトでリーダーを任されていた」という記述は、何が達成されたのかを一切語っていない。役割の名前を言っているだけである。

この状態のまま過程を語り始めると、聞き手には「何のためにやっていた話なのか」が最後まで分からない。目的地の分からない道順を聞かされているのと同じである。だから最初に結果を定義する。

手順

第一に、「何がどう変わったか」を一文で書く。

型は単純である。「××という状態を、△△という状態に変えた」。この型に乗らないものは結果ではない。たとえば「代表を務めた」は役職であって結果ではない。「みんなをまとめた」は行為であって結果ではない。「頑張った」は言うまでもない。

判定基準も単純である。その一文だけを読んだ第三者が「それは良いことだ」と分かるかどうか。 分からないなら、まだ結果になっていない。

第二に、可能なら数値を伴わせる。

数値の効用は、聞き手が変化の大きさを自分で判断できる点にある。「増えた」では聞き手は判断できないが、数字があれば判断できる。判断できる材料を渡すことが、そのまま面接官が組織に報告できる材料を渡すことになる。

ただし後述するとおり、測っていない数値を作ってはならない。 数値化できない場合は、状態の記述で代替する。「誰も引き受けたがらなかった役割に、複数人が自発的に立候補するようになった」といった記述は、数字がなくても変化を伝える。

第三に、結果の切り取り方は複数試す。

ここが最も重要な実務上のコツである。同じ経験でも、何を結果と見なすかは一通りではない。 一つの活動には、参加率、継続率、対外的な評価、内部の意思決定の速さ、次の代への引き継ぎ状態など、複数の変化が同時に起きている。そのうちどれを「結果」として前面に置くかは、書き手が選べる。

そして選択基準は、エピソードの側にはない。証明したい素養の側にある。 志望職種で活躍する人の特徴(3点セットの②御社で活躍できる素養)を先に確定させ、それを最も素直に裏づける変化を結果として選ぶ。この順序を逆にして、まず「一番すごそうな結果」を探しにいくと、証明したい素養と接続しない結果を選んでしまい、後の全工程が噛み合わなくなる。

加工2: ボトルネックの因数分解による特定

なぜ因数分解なのか

結果を定義したら、次は「なぜその結果が出せたのか」を説明する番になる。ここで多くの人が書くのは、打ち手の羅列である。「話し合いの場を増やした」「新しい企画を提案した」「一人ひとりに声をかけた」。

打ち手の羅列は、それ自体では評価材料にならない。なぜなら、なぜその打ち手を選んだのかが説明されていないからだ。 打ち手が有効だったのは偶然かもしれないし、他の誰かの提案かもしれない。羅列からは、その人が同じ状況に置かれたときに再び正しい打ち手を選べるかどうかが読み取れない。つまり再現性が証明されない。

再現性を証明するには、打ち手ではなく、打ち手を選んだ理由を語る必要がある。 そして理由を語るということは、「何が結果を妨げていたのか」——ボトルネックがどこにあったかを言うことである。

手順

第一に、定義した結果を構成要素に分解する。

結果を、それを構成する要素の掛け算あるいは足し算として書き直す。たとえば、あるイベントへの参加人数を結果に据えたなら、参加人数は「そのイベントを知っている人数 × 知った人のうち参加する人の割合」に分解できる。継続率を結果に据えたなら、継続率は「入口で辞める割合」「途中で辞める割合」といった段階ごとの離脱に分解できる。

(念のため書いておくが、ここに挙げたのは分解の形を説明するための一般例であり、私自身の実例ではない。実例は当時のガクチカ原稿を用いた別の記事で扱う。)

分解の粒度は粗くてよい。目的は精密な分析ではなく、「結果が複数の要因の組み合わせでできている」という構造を可視化することである。

第二に、どの要素が効いていなかったかを特定する。

分解した要素を見比べ、当時どこが最も低かったか、あるいはどこを動かせば結果が最も動いたかを言う。ここで特定された要素がボトルネックである。

第三に、打ち手をボトルネックに紐づける。

自分が実際に取った行動を、特定したボトルネックに対応させて説明する。「Aという要素が低かったので、Aを上げるためにBをした」という形になる。

この形になった瞬間、打ち手の羅列は意思決定の記録に変わる。面接官が組織に報告できるのは、まさにこの部分である。「状況を分解して原因を特定し、そこに手を打っている」という報告は、業務の文脈に置き換えても意味を失わない。持ち運べる。これが再現性の実体である。

なぜこの2つで足りるのか——サイクルの分野非依存性

この2つの加工を施すと、エピソードは自然に次の順序に整列する。

目標設定 → 現状把握/課題特定 → 解決策検討 → 結果

結果の定義は「目標設定」と「結果」の両端を確定させる作業であり、ボトルネックの因数分解は「現状把握/課題特定」から「解決策検討」への橋を架ける作業である。つまり2つの加工は、このサイクルの空欄をすべて埋めるように設計されている。だから2つで足りる。

そして重要なのは、このサイクルが分野に依存しないことである。スポーツでも、勉強でも、サークル運営でも、アルバイトでも、ボランティアでも、このサイクルは同じ形をしている。

なぜ分野非依存なのか。理由は単純で、このサイクルは「何かを良くしようとする行為」の一般形だからである。ある状態を別の状態にしたいと思った瞬間、人は必ず目指す状態(目標)を持っている。そして現在の状態との差を認識し、差を埋める手を打っている。この構造を持たない改善行為は、定義上存在しない。分野が違っても構造が同じなのは、分野が「何を良くするか」の違いにすぎず、「良くする」という行為の骨格は一つだからである。

だから、どんな地味な経験であっても、そこに「良くしようとした」瞬間が一度でもあったなら、このサイクルは必ず回っている。 回っていないのではなく、言語化されていないだけである。

「そう見える」のか、「そうだった」のか——翻訳と捏造の境界線

ここが、この記事で最も慎重に書かなければならない部分である。

上の説明を読んだ人は、こう思うかもしれない。「つまり、実際には何も考えずにやっていたことを、後からそれらしい枠に流し込んで、問題解決をしていたように見せかけるということか」と。

それは誤読である。 しかし、誤読されうる書き方をしてきた自覚もあるので、境界線をはっきりさせる。

この作業の正体は翻訳である

前節で述べたとおり、何かを良くしようとした人間は、無自覚のうちにこのサイクルを回している。「なんとなく人が減ってきた気がしたので、なんとなく声をかけてみた」という行為は、粗いなりに現状把握と打ち手の実行を含んでいる。行為としては存在していたが、本人の頭のなかで言語化されていなかった——これが、加工前の状態である。

言語化されていないものは、聞き手には届かない。面接官は受験者の頭のなかを覗けないので、言語化されなかった思考は、存在しなかったのと同じ扱いになる。

したがってこの作業は、実際にやっていたことを、聞き手が評価できる枠組みに翻訳する作業である。事実の集合は一切変わらない。変わるのは記述のフォーマットだけである。日本語で書かれた文書を英語にしても内容が変わらないのと同じ意味で、これは翻訳である。

境界線を判定する4つの基準

とはいえ「翻訳のつもりが捏造になっていた」という事態は起こりうる。そこで、自分の原稿が境界線のどちら側にあるかを判定する基準を4つ挙げる。原稿を書き終えたら、この4つで自己点検してほしい。

基準1: 事実の集合を増やしていないか

翻訳は、既存の事実の並べ替えと言い換えである。やっていない施策を書き足した時点で、それは翻訳ではない。 「本当はやっていないが、この枠に流し込むなら現状分析をしたことにしたほうが収まりがいい」と考えた瞬間に境界線を越えている。収まりが悪いなら、書き足すのではなく、結果の定義(加工1)に戻ってやり直す。

基準2: 数値が観測に基づいているか

書いた数値について、「その数字はどこから来たか」を自分に問う。当時記録していたのか、名簿や履歴から後で数えられるのか、記憶に基づく概算か。このいずれにも当てはまらない数字は、創作である。 なお、後から数えた数字や記憶に基づく概算を使うこと自体は問題ない。深掘りされたときに「当時から記録していたわけではないが、名簿を数えるとこうなる」と正直に答えられればよい。答えられない数字だけが危険である。

基準3: 当時の意思決定と、後からの構造化を区別しているか

ここが最も微妙で、最も多くの人が無自覚に越える境界である。

因数分解によるボトルネックの特定を、当時リアルタイムで行っていたのか、それとも就活の段階で振り返って構造として気づいたのかは、まったく違う事実である。にもかかわらず、原稿の上ではどちらも同じ文章になりうる。「参加率が課題だと考え、そこに手を打った」という一文は、両方の場合に書けてしまう。

私の立場は次のとおりである。後から構造に気づいたこと自体は、まったく問題がない。 むしろ、経験を後から構造化できる能力は、それ自体が評価に値する。問題なのは、後から気づいた構造を「当時からそう考えていた」と言い換えることである。これは事実の書き換えであり、基準1に抵触する。

そして実務的には、この区別を守っても評価はほとんど落ちない。 「当時は感覚的にやっていたが、振り返ると、実際には参加率の低さがボトルネックになっていた」という語り方は、正直であるうえに、自己分析の深さの証明にもなる。むしろ「すべて当時から計算ずくでした」という語りのほうが、深掘りされたときに崩れやすい。学生が本当に完全な計算ずくで動いていたケースは多くないからだ。

ただし正直に言えば、「当時からそう考えていた」と語ったほうが強く聞こえるのは事実である。 ここには、内定を目的関数に置いたときの最適解と、誠実さのあいだの緊張が存在する。私はこの緊張を解消できる万能の答えを持っていない。持っているのは次の判断基準だけである——深掘りされたときに、その主張を支える具体的な記憶を出せるかどうか。 出せるなら「当時考えていた」と言ってよい。出せないなら言ってはいけない。

基準4: 深掘りに耐えるか(最も実用的な判定法)

上の3つを総合した、実地の検査方法がこれである。書き上げた原稿の任意の一文を選び、そこから「なぜ」を3回連続で掘ってみる。自分で自分に問うだけでよい。

  • 翻訳であれば、掘るたびに新しい事実が出てくる。最終的に「経験を通じて自分がそう感じた」という、他人が論理的に否定できない地点に着地する。
  • 捏造であれば、二層目か三層目で必ず空白に突き当たる。答えが抽象的になる、一般論にすり替わる、記憶ではなく推測を話し始める——これらが空白のサインである。

この検査に通らない箇所は、面接の場でも必ず同じ場所で崩れる。 面接官は職業として何百人も掘っている。素人が自分で掘って見つけられる空白を、彼らが見つけられないはずがない。

実行チェックリスト

最後に、手順としてまとめる。

  1. 証明したい素養(②御社で活躍できる素養)を先に確定させる。
  2. エピソードのなかで起きた変化を3つ以上書き出す。
  3. そのうち、1で決めた素養を最も素直に裏づけるものを結果として選ぶ。
  4. 選んだ結果を「××という状態を、△△という状態に変えた」の一文に整える。第三者が読んで「良いことだ」と分かるか確認する。
  5. その結果を構成要素に分解する。粒度は粗くてよい。
  6. どの要素が効いていなかったかを特定する。
  7. 実際に取った行動を、6で特定した要素に紐づけて説明する。
  8. 全体を「目標設定→現状把握/課題特定→解決策検討→結果」の順に並べ直す。
  9. 4つの基準で自己点検する。とくに基準4(任意の一文から「なぜ」を3回)を必ず実行する。
  10. 空白が見つかった箇所は、書き足すのではなく削るか、結果の定義に戻ってやり直す。

この方法の限界

第一に、数値化できない領域は確実に存在する。 人間関係の改善、組織の雰囲気、意思決定の質といったものは、多くの場合測られていない。この場合は状態の記述で代替するしかなく、数値がある場合に比べて説得力は落ちる。落ちることを認めたうえで、状態の記述を可能な限り具体的にするというのが現実的な対応になる。

第二に、そもそも「良くしようとした」瞬間が一度もない経験は、この方法では扱えない。 言われたことをこなしただけの経験には、埋めるべきサイクルが存在しない。この場合は素材そのものを変えるほうが早い。ただし私の観測では、本人が「何もしていない」と思っている経験にも、掘り返すと必ず何かしらの改善行為が見つかる。「何もしていない」は多くの場合、思い出せていないだけである。

第三に、この記事で述べた境界線は、私が自分に課している基準であって、業界標準でも法的な定義でもない。 より緩い基準で運用している人は多いだろうし、それで内定を得ている人もいるはずである。私がこの基準を採るのは、倫理的に正しいからというより、深掘りに耐えるという一点において、この基準が最も勝率が高いと考えているからである。


この記事を読む前と、読んだあと

読む前のあなた 盛るか、弱いまま出すかの二択で悩んでいた。だから、書くたびに気が重かった。

読んだあとのあなた 結果の定義ボトルネックの因数分解という2つの加工を知っている。事実を1つも足さずに、評価できる形に翻訳できる。

明日からやること

  • やめる: エピソードを「もっとすごく」見せようとすること
  • 始める: 自分のエピソードに「何を成果と呼ぶか」の定義を1行足し、原因を3つに分解してみること
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